2005年の第5作にして現在のところ最新作「埋もれ木」。
渋谷シネマライズでの公開時と、
一昨年の秋、東京国立博物館での仏像展での上映で見て、
今回3回目。
(過去記事:仏像展で見た「埋もれ木」)
前作「眠る男」から小栗作品を見始め、「死の棘」、「埋もれ木」と見て行き、
共通していると感じた彼岸と此岸。
今回、初期2作も合わせ、改めて全作品を見て、再認識した。
「泥の河」では「オトナ」と「コドモ」、
「伽耶子のために」では「日本」と「コリア」、
「死の棘」では「正気」と「狂気」、
「眠る男」では「生」と「死」、
「埋もれ木」では「うつつ」と「夢」、
両者の間を、時には自由に行き来し、時には超え難さに苦しむ。
(もっとも、そんな単純化できる作品群では決してないのだが)
3人の女子校生が物語を創り、リレーしていく。
映画の中の「現実」で「非現実」が生み出され、
それはスクリーンに投影され一時的な「現実」となるがすぐに消え、
眼差しは「現実」へと戻る。
しかしそれはすべて映画という「非現実」の中のこと。
映画の中では決して珍しいことではないが、
小栗監督の手にかかるとやはりひと味違ってくる。
いくつかの商店が集まった風変わりなマーケットでの、
大人たちの言葉も「ホント」か「ウソ」か曖昧なものばかり。
「うつつ」と「夢」が現れては消える。
そんなふうに移行する時間の中で、
ずっと有り続けていた古代の埋没林が出現する。
前作では「眠る男」が担った、物言わぬまま有り続ける存在。
深海を思わせる出土した埋没林での祭り。
女子校生たちと、
娘を事故で失い仕事を止めていた建具屋さん(岸部一徳!)が共同で作った、
鯨の紙灯篭が浮いていく。
それを追いかけるように赤い馬の紙灯篭も。
女子校生の心の中に、ほんの一瞬だけ甦る古代林の中、
「またね」と軽い言葉で三方に別れていく3人の姿で映画は終わる。
宇宙の果て、時空の果てを垣間見させてくれる。
これだから小栗ファンはやめられない!
言葉を搾り出すのにさんざん苦労し、
たいしたことも書けなかったが、
小栗康平全映画、これにて完結。




